あなたは、当たり前にある今日を生きていますか?【君の膵臓をたべたい】
『ある日、高校生の僕は病院で一冊の文庫本を拾う。タイトルは「共病文庫」。
それはクラスメイトである山内桜良が綴った、秘密の日記帳だった。
そこには、彼女の余命が膵臓の病気により、もういくばくもないと書かれていて―』
「君の膵臓をたべたい」―――。
いきなり人からそう言われたら、あなたはどう思いますか?
これはどこの学校にもいそうな「地味な僕」と「人気者の彼女」の物語。
はじめまして
ゲストライターのさとしです。
『君の膵臓をたべたい』
この作品の中で僕がとくに好きな部分を2つ、紹介します。
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「生きるってのはね」
「きっと誰かと心を通わせること。そのものを指して、生きるって呼ぶんだよ。」
「誰かを認める、誰かを好きになる、誰かを嫌いになる、誰かと一緒にいて楽しい、
誰かと一緒にいたら鬱陶しい、誰かと手を繋ぐ、誰かとハグをする、誰かとすれ違う。それが、生きる。」
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あなたにとって、「生きる」ってなんですか?
病気を患った高校生の彼女の言葉に、僕は胸を打たれました。
そしてもうひとつ。
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「違うよ。偶然じゃない。私達は、皆、自分で選んでここに来たの。
君と私がクラスが一緒だったのも、あの日病院にいたのも、偶然じゃない。運命なんかでもない。
君が今までしてきた選択と、私が今までしてきた選択が、私達を会わせたの。
私達は、自分の意思で出会ったんだよ。」
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彼女の言葉の中で、一番好きなところです。
僕たちは自分で選んで、今を生きている。
生きていく中で何百何千とある、人生の選択。
数ある選択の結果、出会った【名前のない僕】と【日常のない彼女】。
2人が紡ぐ物語を、ぜひご覧ください。
そしてタイトルに隠された本当の意味とは―――。
読後、きっとこのタイトルに涙する。
(文/太田さとし)
人類の成り立ち、まるっと学べます。【ホモサピエンス全史〜文明の構造と人類の幸福〜】
今回紹介する本。
めちゃくちゃおもろいです。
「〜全史」とかいうと教科書っぽくて、ちょっと敬遠される方もいるかもしれません。
けど、全然そんなことない。めっちゃ読みやすくて、めっちゃ面白いです。
本書の魅力の一端を知ってもらうためにも、 少しだけ内容のご紹介を。
人間はそもそも何種類もいたこと。
本書はそんなところから始まります。
今の僕たち人間はみんなホモサピエンスです。
原始の時代には、チンパンジーとボノボとオランウータンみたいに、サピエンスにもたくさんの種類がありました。
しかし、今ではアジア人も黒人もヨーロッパ人も全てホモサピエンスになっている。
なぜなんでしょう。
その理由は、我々がネアンデルタールなど他のサピエンスを殺しまくってきたからに、ほかならず、殺しまくったからこそ、我々ホモサピエンスは食物連鎖の最上位に君臨できた。
そんな風に著者は述べています。
ホモサピエンスは、ネアンデルタールなどと身体的にはほぼ変わりませんでした。
なんなら、ネアンデルタールの方が身体能力は高かったくらいです。
しかし、ホモサピエンスは、時代のある瞬間において、認知に革命がおきたことで、虚構=神(この場ではこう書かせてください)を信じることができるようになりました。
その結果、神(=虚構)のもとに個人が集団になり、狩りなども何十人が協力して行うようになったのです。
集団が大規模になることで、知識の共有も進み、どんどん知能も高くなっていきました。
一方で、ネアンデルタールには、認知革命が起きず、集団を作れませんでした。
その結果、最大10人ほどの小規模集団に留まり、狩りも個人が主流のままでした。
なので、この二つの種が戦うときは、集団で戦うホモサピエンスにネアンデルタールは、まるっきり歯が立たないという結果になり、ホモサピエンスの大勝利に繋がったわけです。
いやー、こんな原始の時代から、集団の力の凄さを示す傍証があったのかと驚きました。
ホモサピエンス繁栄の背景にある血みどろの歴史にも(笑)
そのほか、本書の中の時代はどんどん進んで行き、
「資本主義」がどのような経緯で発展していったかなどについても語られています。
やっぱり、経済学者のアダム・スミスは画期的ですごい人だったんだなーと改めて実感しました。
当時の「お金儲け」=「悪」の認識を180度ひっくり返したんですから。
本書は時代の流れで話が進んでいくので、今では当たり前のようになっていることに関する背景がしっかりと分かりやすく学べます。
ぼくに、子どもができたら、ぜひ読ませたい本です(笑)
今回紹介したのは、本書のごく一部です。そのほかの内容についても、面白いので、ぜひ、一読してみてください。
(文/とみー、構成/三松文庫)
雪が溶けると何になる?【今年の春は、とびきり素敵な春にするってさっき決めた】
こんばんは、
センチメンタリストあかまつです。
なんだか無性にきゅんきゅんしたい時ってありませんか?
隣に愛する人がいて、その人と笑い合っているような世界を感じたい時はありませんか?
本日はそんな時にぴったりの素晴らしい妄想本をご紹介します。
説明
トキメキで死に至りたいあなたへ―――月間閲覧数1500万回突破!さえり(@N908Sa)が贈る女子たちの夢を詰め込んだ「胸キュン妄想ツイート」がまさかのコミカライズ!
フリーライター『さえり』さんによる乙女の妄想を詰め込んだ本です。
実際の体験ではなく純度100%妄想というところがみそで、
Twitterで公開されたツイートをまとめて作られています。
たとえば…
いまなにしてるかなーって考えてたらLINEがテロリンッて鳴って、彼から「あのさー」「いま」「なんかめっちゃ」って立て続けでメッセージがきたのち、一瞬の間を置いてためらいがちに「会いたくて死にそう」って届いてフェェイフォオオー⤴︎⤴︎って浮かれる展開がないんだけどLINE壊れてる?
— さえりさん (@N908Sa) 2017年2月4日
彼に「好きすぎるんですけど」って言ったら向こうが「いや俺は好き&好きすぎるんですけど」って言って来て「へえ!そうくるなら言わせてもらいますけどこちらは好き&好き&好きすぎですが!?」って答えたらバカかって軽く頭叩かれ、一息ついて「ほんと好き」って微笑まれてトップオブ好きを迎えたい
— さえりさん (@N908Sa) 2017年9月11日
「わかったから」ってあしらってきて、かと思えば「つかれたぁ」ってかわいく抱きついてきて、毎日「今日もかわいい」ってふわっと微笑んでくれて、たまに大人な顔でちゅーしてきて「ごめん、なんか見てたらつい」とか言ってきて、さらに時には「なんか嫉妬した」ってふくれてくるラブリー年上彼氏どこ
— さえりさん (@N908Sa) 2017年4月8日
ただひたすらに、甘い。
内容は全て妄想。圧倒的妄想。
140文字という縛りの中でこれだけ甘さを詰め込められるのか。
一冊全部読めば胃もたれすること間違いなしです。
私たちは思ってしまいます。
こんな世界あるの!?
いえ、こんな世界が無いからこそ、
私たちは妄想をするのです。
「今幸せだから糖分はいらないわ」なんて人は
大切な人といっしょに読んで、
「こんなこと絶対ないよねー!」と二人で笑い合いながら、
突然真面目な顔をして「ほんと好きだよ」って言い合えばいいと思うのです。
恐らく現実にこんなことは起こらない。
起こらないからこそ、妄想は素晴らしいんです。
甘い甘いと言いましたが
この本は妄想に逃げることを推奨しているのではなく、
現実といっしょに歩もうと寄り添ってくれる甘く優しい本です。
あまり甘くない現実に心が疲れた時、
明日からも頑張ろうと思うけどちょっと一休みしたい時、
これを読めばいいと思うのです。
あかまつも来年の春は、
とびきり素敵な春にするって
さっき決めました。
それでは!良い春を!
※用法容量を守ってお読みください。
甘すぎて糖分過多になってもあかまつは責任を取りません。
あなたの時間も知らずに盗まれているかも??【モモ】
モモ 時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語
- 作者: ミヒャエルエンデ,大島かおり
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1976/09/24
- メディア: 単行本
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「時間がない」
本書、「モモ」を読んでそんな事ばかり言っている、自分に気づきました。
心のゆとり、時間の余裕とはなんでしょう。
なんのために、今やり遂げたいことを追っているのでしょう。
ただ、不安にかられて焦ってるだけかもしれません。
将来安心して暮らせるのかな、
そんな事ばかり不安がってます。
本書では大人が時間を節約して、効率よく仕事することを試みてます。
働き方改革が推進されている今、とても重要なことですね。
ただ、仕事の目的が効率向上に変わってはいけない。
モモではいつの間にか、生きる目的が効率に変わってしまった世界を見事に表現しています。恐ろしかった。
モモは小学5,6年生を対象にした本と思えないほど充実した哲学書であり、
小学生にも楽しめるファンタジー小説です。
オススメの一冊。
(文/メガネ男)
一人の旅行者の視点から考察する“社会”と“時代”【愚か者、中国をゆく】
近年、中国は先進諸国に負けず劣らず、インフラをはじめとして、さまざまな発展を遂げている。
上海や北京などの大都市に立ち並ぶ高層ビルや、13億人を超える人口を巨大なマーケットとして世界が注目していることからも「中国がアジアにおける大国である」という認識自体は間違っていないのではないかと思う。
「数年前までは、なにもなかった場所に高層ビルが立ち並ぶ」-
そのような、多分にロマンを含んだイメージを、中国に対して抱いてはいるものの、数十年前の中国を実際に見たことがないため、現在の発展に至るまでの成長の経緯といったものを、教科書的な教養としてしか知らない。
そのため、自身の“中国感”が、些か杓子定規なものではないかと感じていた。
最近の中国関連のニュースに触れる中で、上述の思いが強くなっていく中、大学時代の中国語授業にける論文の課題図書としてあげられたにも関わらず、一度も真剣に目を通していなかった中国に関する本を自室の本棚で見つけ、「いっちょ真剣に読んでやろう」と思い手に取った。それが、今回紹介する星野博美さん著作のノンフィクション旅行記である。
著者である星野博美さんは、著作「転がる香港に苔は生えない」で大宅壮一ノンフィクション賞(ノンフィクション界の芥川賞や直木賞のようなもの)を受賞した方である。本書「愚か者、中国をゆく」は、そんな大宅賞を受賞した作品よりも後に出版されたものの、時代背景としては、それ以前であり、著者の原点ともいえる。
本書は、1980年代、大学に入学した著者が、中国に憧れるものの中国への留学ができず(※)、妥協してイギリスから中国に返還される以前の香港のとある大学に留学した後、休暇で、“中国”本土を、アメリカ人の友人と旅行した際の旅行記を中心とした内容となっている。
(※)当時の中国は、外国人の自由旅行が事実上可能になったばかりで、貴重な外貨を外国人からがっぽり搾り取ろうというのが中国政府の方針であり、留学費用は国費留学を除いて、費用が馬鹿高かったそうだ。
本書における中国は、文化大革命の混乱がようやく収まり世界に向けてその扉を開き始めた1980年代の中国である。
1980年代当時の中国国民の市井における生活様式や文化、制度など、旅を通じて見る当時の中国の様々な現実から、著者が背景や国民性を学ぼうと努力しながら、考察し、自分なりの“中国感”を形成していく内容となっており、著者のユーモアやウィットに富んだ洞察および感性を含めて、興味深く読み応えがある。
ともに旅行したアメリカ人との仲たがいなど、旅のどたばたも多く語られ、どんどん読み進められる。
中国という広大な国土を持つ国の社会にどっぷりと浸かり、異文化に対する理解を深め歩み寄ろうとしながらも、中国社会そのものに迎合しているわけでなく、あくまで冷静な目を持って、事柄を見つめる著者の“生き様”ならぬ“旅ざま”は、旅での実際の行動はどうあれ、その感性ひとつとっても、とてもじゃないが“愚か”とは言い難い。
また、1980年代当時の中国に関する描写が面白いのはもちろんのこと、“旅”そのもに関する考察も非常に面白いものとなっている。
例えば、「自分を現実より大きく見せるために『高くて有名なブランド品を身につける人』に対して、『非日常を求める旅人』らは、自分たちと異なる価値観を持っていると感じる傾向にあるが、実はその本質は同じなのではないか」との著者の考察には、頷けるものがあると感じた。
ようするに、「知る人ぞ知るブランド品を身につける人」と「人に聞かせてなんぼである“旅”をする旅人」は両者ともに、あるまとまった数の他者の視線を意識しているという点で似ていると著者は述べているのである。
話を中国に戻そう。
社会主義を掲げ、“平等”を是とするのが基本原理とされる「中国」と、合理性を追求し、“競争”を是とする資本主義の「日本」との構造の違いが、当時は今以上に際立っており、両国の風土を感じ、比較することで、中国の社会構造をしやすかった時代であったのではないかと思う。
しかし、この時代は、新たに始まった中国の改革開放路線に伴い、中国国民の中に、がむしゃらにがんばるという感情が芽生えた、過渡期ともいえる時代でもあり、すでにこの時代に中国が急成長を遂げる萌芽は確実に存在していたことが本書からは読み取れる。
そうした過渡期を直に経験した著者は、本書の後半で、急成長を遂げた中国に対して一定の理解を示しながらも、その早すぎる成長に対して、時代に取り残されるような切なさを感じている。
本書の初版が発行されたのが2008年。すでに10年近い月日が流れている。“今”の中国に対して著者はどう感じているのだろう。気になるところである。
改めて、星野博美さん、大学時代、こんなに面白い本を読み飛ばしてしまい、本当にごめんなさい。
一路平安-!
【文/三田稔】
想像して、発信すること【想像ラジオ】
おはようございます。
時刻はただいま朝の9:42
お相手は妄想大好き、センチメンタリストDJあかまつです。よろしくお願いします。
なんてラジオの前口上みたいに始めてみました。
ラジオって素敵ですよね。
夜ふとラジオをつけると、ラジオの向こう側には同じように同じ時間に聞いている人がたくさんいるんだな、と不思議な繋がりを感じます。
そんなラジオ関連で本日ご紹介する本はこちら
続きを読む社会と人間と言語と。【偉くない私が一番自由】
ボルシチ、ペリメニ、キャビア、黒パン・・・etc。ロシア料理はいくつか知っており、どれもおいしそうだと思ってきたものの、一度も食べたことがないことに気づき愕然とした。
どこか開放的な題名と編者の佐藤優さんの名前に惹かれて本書を手に取るまで、恥ずかしながら、これまで米原万里さんの著書を読んだことがなかった。今回、本書を読了して、作家・ロシア語同時通訳などで活躍された米原万里さんの豪放磊落(女性にふさわしい表現かわからないが)ともいえるような人間的魅力の一端に、初めて触れることができたように思う。
本書は、ロシア語通訳・作家・エッセイストとして活躍された故米原万里さんの作品を、米原さんの没後10年に際して、生前関係が深く盟友とも呼べる関係であった佐藤優さんがよりぬき、一冊にまとめたものである。
米原さんがロシア語の通訳の第一人者であり、ソ連時代からロシアとの縁が深く、かつ健啖家でもあったことから、編者の佐藤さんは「シェフ」となり、作品をソ連時代のロシア料理に見立て、前菜・ワイン・メインディッシュといったフルコースとして、ときに解説を交えながらユニークに紹介している。
9歳のころ、父の仕事の都合でチェコに移り住み、すべての授業をロシア語でおこなうソビエト学校で小学校生活を送ったという米原さんの作品は、ロシアという国の造詣にあふれているだけでなく、単なる文化の紹介にとどまらない、そこに住む「人間」の内面・生活をひしひしと感じさせる内容となっており「はっとさせられるもの」から「くすっと笑えるもの」、「心温まるもの」までバリエーションがとにかく豊かである。
これらの作品を通して、特に私が印象に残ったことが3つある。
1つ目は、米原さん自身の経験を通して語られる日本とロシアの教育の違いである。
元々、常日頃から教育論やなんだのにうんざりしてしまう私ではあるが、米原さんの語る教育は、すとんと腑に落ちる感があり、実際のロシアの教育の一端を知れるという新鮮さもあいまって非常に楽しめた。日本の教育や社会の成熟度は10年以上前から、なにも変わっていないのではないかと、私が感じるのは知ったかぶりの妄言か。教育というものの実務や研究に関わる方々が、どのように感じており、これからどうしていきたいと思うのか興味が沸いてくる内容だった。
2つ目は、ソ連時代の独裁者スターリン嫌いの米原さんが、スターリン著「マルクス主義と言語学の諸問題」の邦訳に触れ、その内容の圧倒的大部分が、今日の常識に照らし合わせても、客観的に説得力があると感じるところである。
1900年代当時のマルクス主義の主流が、優勢民族・言語が劣勢民族・言語を吸収して当然とあったのに対して、スターリンは自著で多くの民族の自決をうたい、民族の概念規定に言語を不可欠とするなど、あらゆる民族や言語というものの重要性について主張しているそうだ。しかし、スターリンは、このように民族と言語の重要性を把握していたからこそ、徹底的に残虐にチェチェンやクリミヤ・タタールなど、ソ連内の少数民族に対する絶滅作戦を行うことができたのだろうと、米原さんは述べている。
「『悪』はまともさの延長線上にある。だからこそ恐ろしい」
誰もが、はっとしてしまう。そんな名言であると思う。
3つ目は、「言葉」の自由さに関することである。
佐藤さんが語るには、米原さんの人格や考え方は、帝政ロシア時代の詩人・ネクラーソフの影響を多分に受けているとのことである。本書に収録された作品内でもネクラーソフに関する卒業論文内はもちろんのこと、ネクラーソフの名は頻繁に登場し、貴族に生まれながら、民衆に寄り添い続けた人物であることが読み取れる。米原さんは、そのネクラーソフの詩を引用しながら、「言葉」の自由さについて考察している。
「どこからも文句のこないような、いわゆる一方的で閉じられた神の言葉であろうとするかぎり、言葉は不自由極まりなく、逆に、一個人に過ぎない『私』の言葉であれば、偏向した発言をする自由すら得て、切実にも激烈にもなり得て、心に響く」旨を、米原さんは述べている。思わず、関係あるかないかは別として、「正論バカ」といったフレーズが、頭によぎってしまった次第である。
以上、3つ印象に残ったことを述べたが、このほかにも、佐藤さんの米原さんとの関係についての佐藤さんの記述などシェフとしての佐藤さんの記述も面白い。米原万里さんという人物をあくまで佐藤優さんの視点で描写していると私は感じたのだが、そこが楽しく感じた。
最後に。
個人的に、米原万里さんの作品やそのほかネーミングセンスがツボである。猫の名前に「無理(むり)」と「道理(どり)」、著作の名前が「不実な美女か貞淑なブスか」などなど。
著作に関しては、内容を知らずとも、タイトルだけで思わず手に取りたくなってしまう。近日中に、いそいそと本屋に出かけていく自分の姿が目に浮かぶようだ。
【文/三田稔】